井上神父ゆかりの地
井上洋治神父ゆかりの地を訪ねる旅~第2回 一遍の修行の地へ・松山市と砥部町~
【井上洋治神父 年譜・著作・アルバムより】 ――松山市と砥部町の地における一遍を慕った人生のあしあと・坂村真民との関係にもふれて――
* 1962年(昭和37年)35歳
この頃、越知保夫の評論集『好色と花』を読んで示唆を受け、唐木順三、梅原猛、亀井勝一郎などの著作を読みふけり、日本文化の底流を探る思索を深めていく。
*1996年(平成8年)69歳
8月、一遍・法然の足跡を訪ね、愛媛の岩屋寺と窪寺、兵庫の室津などを歩く。
井上洋治著作集5巻『遺稿集「南無アッバ」の祈り』(日本キリスト教団出版局)の「年譜」より
越知保夫の評論集『好色と花』は、遠藤周作に勧められて読んだ本です。
■私の叩くのは一遍の門
もしかりに私がキリスト者でないとして、仏教に道を求めた場合、一体私はどの宗教にどびこもうとするだろうか、(中略)そうすれば、やっぱり私の叩くのは一遍の門ということにもなろうか。
(井上洋治著作集2巻『余白の旅』より)
これは、井上神父が「余白の旅」(初版は1980年9月発行)のなかで、唐木順三の著書『無常』の、一遍に関する下記のような引用をしたうえで、述べた言葉です。
「一遍によつて鎌倉新仏教は初めて「軽み」をもつにいたつた。芭蕉が晩年にいひだした意味での「軽み」である。無一物で、無念で、外へ出てゆく自由である。構へのない表現である。なにか存在の全体、宇宙にリズムといふべきものがあつて、そのリズムに乗つて行ひ、それに調べを合すといつた生き方である。」
「一遍にいたつて、はじめて、称名が天地山川草木との合唱の趣を呈してきた。」
「認識主体(心)とその対象(物)といふ二元の関係とは違つて、万法がおのおの、自受用三昧にあるという現成世界、松は松の、竹は竹の、本来の面目を現成してゐる世界、さういう世界を一遍は見た。」
■1996 年 8 月 20 日の写真
(井上神父のアルバムから)
■一遍の 燃えるような求道を 燃えるような求道を 燃えるような求道を (詩「―熊野の古道」後半部分より)
一遍が命をかけて修行した
岩屋寺の窟
窪寺の草庵
かつて訪れたそのイメージが
ふかく
ぼくの心をゆさぶる
アッバ
どうか一遍の燃えるよな求道を
ほんの少しでも
私の心に もえたせてください
1998年8月25日 熊野古道にて(井上洋治『南無アッバ』2000年3月 聖母文庫)
■一遍上人のお札くばりから「南無アッバ」のお札くばりへ
私は一遍上人のお札くばりにならって、小さな木片に祈りをこめてかいた「南無アッバ」のお札を、「風の家」を手伝ってくださっていた信者の方の手作りの布の袋に入れ、お望みの方々に渡す「南無アッバ」のお札くばりを、「風の家二十周年記念」の「南無アッバミサ」が行われた二〇〇六年六月より実際に始めたのでした。
「一遍上人のお札くばりから「南無アッバ」のお札くばりへ」
(井上洋治著作集5巻『遺稿集「南無アッバ」の祈り』より)
記事:山根知子
井上洋治神父ゆかりの地を訪ねる旅 ~第2回一遍の修行の地へ・松山市と砥部町~②
2017年1月に、1泊2日の行程でめぐってきた道行きをご紹介し、その写真とメモから、井上洋治神父の足跡とその思いをお伝えします。
同時に、今回の旅は、愛媛県砥部町「坂村真民記念館」にて開催されていた企画展「祈りの詩人坂村真民の原点を求めて~聖フランシスコとマザー・テレサそして一遍へ~」という展示のなかで、井上洋治神父に関する展示もなされているということから、それを見たいという目的もありました。
そこで出発前に、2016年11月に開設された「井上洋治文庫」(ノートルダム清心女子大学内にて井上洋治神父の書籍を保存した文庫)を確認してみたところ、井上神父の蔵書のなかに、坂村真民の著書が2冊、『念ずれば花ひらく』と『一遍上人語録捨て果てて』(いずれも真民の書と署名入り)が、所蔵されていることがわかりました。
『念ずれば花ひらく』(1979年4月柏樹社)
『一遍上人語録捨て果てて』(1981年11月大蔵出版)
(ノートルダム清心女子大学附属図書館・キリスト教文化研究所内「井上洋治文庫」所蔵)
今回は、井上洋治神父と坂村真民、このお二人が一遍を慕って求めた宗教性について理解することをめざし、出発しました。
まず訪れた「宝厳寺」は、愛媛県松山市道後にある一遍の生誕の地とされるところに、時宗の寺として建てられた寺。
↑(宝厳寺ホームページより)
その後、砥部町にある坂村真民記念館に行きました。
西澤孝一館長(左)と山根道公編集長
企画展「祈りの詩人坂村真民の原点を求めて~聖フランシスコとマザー・テレサそして一遍へ~」が行われている坂村真民記念館では、西澤孝一館長より4時間にわたる詳細なご説明をいただきました。
井上神父が仏教徒である一遍の霊性に深い共感をおぼえ、そこから学んでいるように、坂村真民もキリスト教徒である聖フランシスコとマザー・テレサの霊性への深い共感をおぼえ、そこから詩がうまれていることを知ることができました。
■祈りの詩人坂村真民の日記から
一遍に傾倒している坂村真民の日記によると、井上神父への思いが次のように述べられます。
「井上洋治司祭の著二冊が届けられてきた。
早速読んだ。
この司祭がこんなに一遍を知り、その語録を読んでいられることを知り感
動した。こういう人が増えて、初めてキリスト教が日本に土着するだろう。」
昭和 57 年 11 月 2 日付の日記より (坂村真民記念館)
「井上洋治神父のこと」と題したパネルが展示されていました。
このパネルには、「詩国」246号(昭和57年12月)の「後記」において、坂村真民が書いた、井上神父の『私の中のキリスト』『日本とイエスの顔』『イエスのまなざし』『余白の旅』を読んでの言葉が掲載されており、文章は次のようにしめくくられています。
「わたしは井上洋治さんの四冊の本を読み、キリスト教がしんに日本の土となり、花をさかせてゆく大切な光と水のようなものを感じた。一遍上人もどんなにか喜ばれたことであろう。」
井上洋治神父と坂村真民をつないでいるのは、一遍上人の求道者としての生き方への追慕だとわかりました。
その隣には、「八木重吉のこと」と題したパネルが並んでいました。
第1回の井上洋治神父ゆかりの地をめぐる旅でめぐった八木重吉も、井上神父と坂村真民の心の琴線をふるわせた詩人であることがわかりました。
また、井上洋治神父と坂村真民のつながりあう思いとして、一遍のお札くばりの修行を引き継いだ点が見出されました。
坂村真民は、詩を記した「詩国」という印刷物を、毎月発行・送付することが、お札をくばる修行の意味あいとしてなされており、1962年(53歳)から続けられていました。
井上洋治神父と坂村真民の「お札をくばる」という思いのなかにも、響きあう信仰心が見出されます。
■窪寺跡
見学後、西澤館長に「窪寺跡」に行きたい旨を伝え、場所を尋ねたところ、行き方が難しいので車でお連れしましょう、と言っていただき、有難くお願いしました。
現在の窪寺跡
行ってみると、なるほど、わかりにくい場所でした。
今回の写真ですが、窪寺跡はこんもりとした山の傾斜前のわずかな平地部分でした。
この二つの碑石のうち、右の碑石は、1996年に井上神父が寄り添って立った碑石と同じものですが、井上神父が訪れた当時、設置されていた碑石の場所は違っていて、この場所に来る途中にあったそうです。現在は、写真のように「窪寺閑室跡」に移されています。
井上神父の1996年の旅では、このあと一遍の修行の地である岩谷寺に向かったようですが、今回は1月という季節のため、雪があって近づくのは難しいだろうとのことで断念し、次回とすることにしました。
一遍上人と井上神父、そして坂村真民との霊性の響きあいを感じることができる旅でした。
それはまさに、日本人の心の深部の水脈につながる求道者の霊性であると、しみじみ感じられました。
記事:山根知子