井上洋治神父ゆかりの地を訪ねる旅 ~第4回:良寛修行の地へ・岡山玉島円通寺~
【井上洋治神父 著作より】
―岡山の地における良寛を慕った人生のあしあと
『井上洋治著作選集』第7巻は、2017年2月に刊行されました。
その第7巻に入っている『まことに自分を生きる』「第四章 良寛」に記載された井上神父ゆかりの地として、岡山玉島の円通寺の旅へとご案内します。
まずは、この著書より、良寛の修行の地である岡山玉島円通寺での足どりについて、井上神父が辿っている文章について、確認しておきましょう。
良寛が円通寺にいたのは、22歳から34歳までで、国仙和尚との出会いから国仙和尚の死後、諸国行脚の旅に出るまでの修行期間です。
■良寛修行の地へ
「彼が真に求道者として仏道にはげむようになるのは、二二歳のとき国仙和尚と出会い、彼に従って備中玉島の円通寺という寺に行ってからのことであり、良寛はここで真の仏道修行にはげむこととなる。
ここでの一二年ばかりにわたる修行は、おはじきや手まりをしながら子供たちと遊んでいる晩年の良寛の姿とはほど遠く、正規の禅僧としてのまことに厳しいものであったと思われる。」
(『井上洋治著作選集』第7巻『まことの自分を生きる・イエスへの旅』
日本キリスト教団出版局 2017年2月20日より 以下同)
■良寛の修行と井上神父のカルメル会修道院の生活
「この厳しい生活規範を見ていると、フランス在住当時のカルメル会修道院の日課がなつかしく思い出されてくる。今はまったく好き放題の独居生活で、宗教家としては落第だなと我ながら思うような生活振りをしているが、しかしあの頃は私なりに必死であった。」
■良寛とリジューのテレーズ
「良寛の円通寺修行時代のことについては、円通寺側に確かな資料が残っていないのでくわしいことはわからないらしい。ということは、良寛はとくに目立ったことをしていなかったということであろう。ここで私は、リジューのテレーズとふつうに呼ばれているテレーズ・マルタンというキリスト教の聖女のことを思いだす。
「テレーズは一五歳で、フランスのリジューという町の女子カルメル会の修道院に入会し、二四歳の若さで一八九七年に亡くなったのであるが、彼女修道院生活の大きな特徴の一つは、なに一つ目立ったことがなかったということであった。そのあまりの単純さ、素朴さのゆえである。」
■円通寺での修行後、良寛は挫折のうちに行脚の旅に出ます。
その挫折の涙に共感をする井上神父の思いは、次のように述べられます。
「今から二〇年以上もまえのことになるが、私は東京の郊外のバラックに住んで伝道を始めたことがあった。そのときの心境をかつて『余白の旅』という拙い本の中で次のようにかいたことがある。自分を良寛とくらべてみるなどということは、まことに不遜きわまりないことであるが、しかし同じ一人の求道者として、宗教家として、私は沙門良寛の悲しみと苦悩とが、私の心の傷にしみこんでくる思いがするのである。
(中略)
「教会の門の外で道を求めている人たちをしめだしてしまうような律法主義的な傾向にしろ、ヨーロッパ直輸入そのままのような制度の在り方にしろ、もっと自分たちの頭で真剣に考えていかなければ日本の教会は駄目になってしまうのではないか、田舎道を歩きながら星空を仰いで、何度か私は深い危機感におそわれたものであった。
「私も日本のキリスト教の将来を本気で憂いていた。だがついぞ私は『聖書』を自分の涙でぬらしたことはなかった。
「良寛ほどに、深い挫折感と哀しみを心の奥に秘めながら、しかもそれに徹しきることによって初めてみえてくる天真爛漫の世界を歌いあげた人を私はしらない。誰にも言えないほどの深い哀しみがなくて、どうして遊んでいる子供たちを見て人が涙することがあるだろうか。」
【井上洋治神父 アルバムより】―井上神父の旅の記録から―
井上神父が遺したアルバムには、写真だけでなく、行事や旅に関する資料が大切にはさまれています。
そこからわかることは、井上神父が円通寺に行ったのは、1989(平成元)年3月8日で、私の勤めているノートルダム清心女子大学の卒業行事である「フッド授与式」での講演後でした。
12時までの講演のあと、井上神父を講演に招いたシスター渡邉和子学長と昼食をとったあと、井上神父は下記のような日程計画で玉島を訪れたようです。
↑日程計画表から
円通寺 良寛堂の前で
「童と良寛」石像と
この写真からは、井上神父が円通寺付近から瀬戸内海を臨んだことがわかります。
また、アルバムに挟み込まれた資料のなかには、こんなものもありました。
これは、井上神父のお気に入りだったお酒、倉敷の森田酒造の「荒走り」のラベルです(きれいにはがしてあります)。
このラベルを井上神父が旅の記録とともに大切にしまっていたということは、この旅のときに出会ったお酒だったのかもしれません。
東京の「風の家」で、井上神父が「倉敷の美味しいお酒があるぞ」と言って一緒に私たちにも飲ませて下さったことがありました。おいしそうに飲んでおられた井上神父のそのお姿が、この円通寺への旅の思い出とつながっていたものであったと知ることができ、感動しました。
井上神父が円通寺を訪れたのは、3月でした。
今回の旅も、少し季節のずれた6月の旅となりました。
井上神父が訪れた良寛堂。
この建物は、円通寺で修行をした良寛が寝起きしていた寮であったようです。
↑井上神父の写真と比較すると、同じ石像ですが、この30年近くの間に樹が成長したのか、場所が移転したのかわかりませんが、ずいぶん樹の高さが違うことに気づきます。
井上神父は、良寛が自らを見出してくれた円通寺の国仙和尚に出会って、新潟出雲崎から岡山まで国仙和尚に従ってはるばるやってきた思いを、しみじみと思いやったことでしょう。
と同時に、国仙和尚が亡くなってこの寺を出た後、良寛は諸国行脚の旅に出て、故郷出雲崎に帰るまでの5年間の過ごし方や出雲崎帰国後の姿の変貌について、井上神父は疑問を感じ、「円通寺出奔後、良寛が完全な挫折を体験したということではなかろうか」(前掲書 第四章 良寛)という推測をめぐらしていたことでしょう。
井上洋治神父直筆の書
井上神父は「風の家」を創めるにあたって、「風の家」趣意書で「聖なる風(プネウマ)の吹くままに、将来の日本のキリスト教のための、一つの踏み石になればと願っています」と書いています。
良寛が苦しみのなかで心の奥底に引き抜ける「大自然のいのちの風(プネウマ)」を感じて、その後、天真爛漫とした詩をうたいあげるようになったことを想い、井上神父も「風(プネウマ)」におまかせして、人々の心の真の救いを探ろうとしたのではないでしょうか。
「風の家」の活動の中心となる機関紙「風(プネウマ)」の表紙の文字は、良寛の「天上台風」の「風」を使いたいと井上神父が考えた思いも、このような円通寺の旅へとつながっていたのだとしみじみ感じられました。
最新号『風プネウマ』(題字 良寛書「天上台風」より)
記事・写真:山根知子
P.S. このあと、車のなかで待っていた愛犬ポピーのために、笠岡湾干拓地のポピー畑に行きました。
生涯で初めて、ポピーが、名前の由来の花・ポピーと出会うという体験であり、しかもそのなかで走りまわることができた体験でした。